『諦める力~勝てないのは努力が足りないからじゃない』を読んだ感想

Life

メ諦める力を読んだことがない人「諦める力の詠んだ感想が知りたい。どんな内容でどんな人が読むべき本か教えて欲しいです。読んで得られたことなども教えて欲しいです。」

こういった疑問に応えていきます。

本記事の内容

  • 「諦める」について
  • 諦めたくないから諦めた
  • やめることについて考えよう

この記事を書いている僕は、実際に読んで記事にしています。

  • 「諦める」について
  • ぼくは小学校の頃から社会人にまで野球をしていました。

    野球を通してコーチや監督、チームメイトによく「諦めるな!」と言われたり、お互いに言い合ったりしていたので、「諦める」という言葉にかなり抵抗がありました。

    野球以外のスポーツマンでも諦めることが嫌いな人はかなり多いと思います。

    そして、勉強や音楽などの芸術の世界でも「諦める」という言葉を好んで使ったりする人は日本にはそこまでいなかったと思います。

    そんな中オリンピック選手の為末さんが「諦める力」という本を出したので、かなり衝撃的でしたので、早速レビューします。

    「諦める」という言葉について、皆さんはどのような印象を持っているのだろうか。

    「スポーツ選手になるのを諦めた」

    「一流大学に行くのを諦めた」

    「夢を諦めた」

    いずれも後ろ向きでネガティブなイメージである。

    辞書を引くと、「諦める」とは「見込みがない、仕方がないと思っている断念する」という意味だと書いてある。しかし、「諦める」には別の意味があることを、あるお寺の住職の対談で知った。

    仏教では、心理や道理を明らかにしてよく見極めるという意味で使われ、むしろポジティブなイメージを持つ言葉だというのだ。

    そこで、漢和辞典で「諦」の字を調べてみると、「思い切る」「断念する」という意味より先に「あきらかにする」「つまびらかににする」という意味が記されていた。

    それがいつからネガティブな解釈に変化したのか、僕には分からない。

    しかし、「諦める」という言葉には、決して後ろ向きな意味しかないわけではないことは知っておいていいと思う。

    さらに漢和辞典をひもとくと「諦」には「さとり」の意味もあるという。

    こうした本来の意味を知ったうえで、「諦める」という言葉を改めて見つめ直すと、こんなイメージが浮かび上がってくるのではないだろうか。

    「自分の才能や能力、置かれた状況などを明らかにしてよく理解し、今、この瞬間にある自分の姿を悟る」

    諦めるということはそこで、「終わる」とか「逃げる」ということではない。

    そのことを心に留めながら、本書を読んでいただければと思う。

    日本語の面白さが最初に書かれていますね。

    恐らくぼくを含め、多くの人が「諦める」=ネガティブなイメージを持っていたと思います。

    ですが、著者の意味合いですと、「悟り」を意味しています。

    諦めるという言葉を理解するだけでも、かなり勉強になりますし、本当の意味を知っていたらまた違った人生があったのではないかぐらい貴重です。

    もう少しこの本に早く出会えば僕の人生も違った形になっていたかもしれません。

    自分の人生の選択肢が大きく変わる可能性があるので、ぜひ手に取って読んでみてください。

    参考までに今ならアマゾンプライム特典で無料で『諦める力~勝てないのは努力が足りないからじゃない読んだ感想』が読めます。

    プライム会員がまだの方は、ぜひこの機会にサクッとプライム会員になってみてください。

    →Amazonプライム無料体験はこちら

    諦めたくないから諦めた

    僕は18歳のとき、姉の影響を受けて陸上を始めた。

    競技生活のスタートは、地元広島にある陸上クラブだった。

    早く走りたいと思って陸上を始める多くの少年少女が青焦がれるように、僕も花形種目の短距離に取り組んだ。

    走り始めると、すぐに頭角を表した。

    身体的に早熟だったこともあり、経験を積むにつれてタイムは急激に伸びていった。

    全日本中学校選手権は、中学生最高峰の大会と呼ばれている。

    僕は中学二年の夏、100メートル、400メートル、走り幅跳びなど複数の種目で中学ランキングの1位になった。

    ところが、そこまで極めて順調だった僕の陸上人生は、早くも高校三年瀬のインターハイから狂い始めた。

    インターハイとは、全国高等学校総合体育大会のことだ。

    すべてのスポーツに取り組む高校生が憧れる、スポーツの祭典である。

    僕はこの大会で100メートル、200メートル、400メートルの3種目にエントリーしていた。

    しかし、顧問のセイン性が僕に黙って100メートルのエントリーを取り消してしまっていた。

    100メートルのスタートリストに自分の名前がない。

    驚いた僕は先生に詰め寄った。

    100メートルでの優勝を狙っていた僕は、顧問の先生と言い合いになるほど激昂した。

    冷静になってよくよく話を聞いてみると、先生が100メートルのエントリーを外した理由は、僕の肉体を思ってのことだった。

    僕は早熟で、高校生の段階である程度肉体は完成していた。

    だが、瞬発力と爆発的なスピードが必要な100メートルの試合で、肉離れを繰り返していた。

    先生は、高校生最後の年は肉離れをさせたくないと考え、100メートルより多少スピードが遅くなる200メートルと400メートルの2種目に絞ったのだ。

    「高校最後の年のインターハイと国体は200と400に絞って、大学に入ってから100に専念したらいいじゃないか」

    先生はそう言って僕を説得した。

    渋々ながら同意した僕は、200メートルと400メートルに出場した。

    400メートルでは、当時の日本ジュニア新記録となる46秒27のタイムで優勝した。

    100メートルは、数ある種目のなかでも競技人口が突出して大きい。

    多くのアスリートが100メートルに参入するが、特別に才能あるアスリートだけが残り、可能性の見えないアスリートは去っていく厳しい世界だ。

    それでもなお競技人口が最も多いのが100メートルという種目であり、その頂点はとてつもなく高い。

    当時の僕は、同世代の日本の中ではトップクラスににいた。

    だが、だんだんほかのアスリートに追いつかれ始めていた。

    レースによっては、ライバル選手に勝てなくなっていたのも事実だった。

    肉離れを繰り返していたことを考えても、僕の肉体は100メートルに向いていなかったのだと思う。

    インターハイのエントリーを削除したとき、先生は「おまえは、この先100メートルでは勝負できない」とは言わなかった。

    だが、以前から400メートルハードルに取り組むことを勧められていた。

    恐らく先生は、かなり早い段階で僕の限界を見抜いていたのだと思う。

    結局、インターハイの後の大会でも、100メートルに出場することはなかった。

    僕は100メートルを走ることを諦め、400メートルと400メートルハードルに絞ることにした。

    高校三年生、十八歳の僕としては、人生の転機ともいうべき苦しい決断だった。

    「努力しても100メートルでトップに立つのは無理かもしれない」という感覚を味わった。

    「100メートルでメダルを取るよりも、400メートルハードルの方がずっと楽に撮れるのだはないか」

    にもかかわらず、100メートルでも400メートルハードルでも、つまり楽をしようが苦労をしようが、金メダルは金メダルである。

    僕は次第にこう考えるようになった。

    「これだったら、400メートルハードルでメダルを狙うほうが、100メートルで狙うよりほど現実味がある」

    スポンサーリンク

    世間の人から見た100メートルと400メートルハードルのインパクトはまったく異なる。

    それでもメダルはメダル。

    同じメダルであるにもかかわらず、取りやすさがまったく違った。

    僕は体格的にもこの競技にマッチするだろうという予測もできた。

    400メートルハードルなら、僕にもメダルがとれるかもしれない。

    そう考えて、僕はこの競技に転向した。

    ただし、感情的にはそう簡単に割り切れたわけではない。

    100メートルという陸上の花形種目からマイナー種目である400メートルに移った時点で、僕は一時期、強い葛藤に見舞われた。

    「割り切った」
    「諦めた」
    「逃げた」

    こうしたネガティブな感覚を持ち続けた。

    それを人に言いたくなくて、心のなかに隠しておくことが大きなストレスになった。

    優秀なスポーツ選手は頭がいいなと思いました。

    ぼく自身はまったく本書のような考え方を持つことができずでした。

    目的のために、手段を選ばず合理的に考えることは簡単そうに見えますが、多くの人ができていないです。

    やりたいことをやるのはいいですが、目的を叶えるなら目的を達成しやすい選択肢を選ぶことは優秀だなと思いました。

    メダルを取るために合理的に考えることができる思考を持てば、ほかの分野でも活かせそうですね。

    こう言った考え方は、学校や家で教えてもらえないので、家族やこどもに読ませたいと思いました。

    手段を諦めることと目的を諦めることの違い

    僕は2011年のロンドンピックオリンピック予選に敗れて引退したが、その時は不思議なほど迷いや葛藤はなく、すっと舞台から降りる感覚だった。

    今の僕にとって、何かを「やめる」ことは「選ぶ」こと、「決める」ことに近い。

    もっと若いことは「やめる」ことは「諦める」こと、「逃げる」ことだった。

    そのように定義するとどうしても自分を責めてしまう。

    僕は18歳で花形種目の100メートルから400メートルハードルに転向したが、普通、18歳といえば、夢に向かってがむしゃらにがんばっている時期だろう。

    「諦めるのは早い」

    一般的にも、まだまだそう言われる年齢だ。

    僕は諦めたことに対する罪悪感や後ろめたさを抱きながら協議を続けていた。

    しかし、時間が経つにつれて、400メートルハードルを選んだことがだんだんと腑に落ちるようになった。

    「100メートルを諦めたのではなく、100メートルは僕に合わなかったんだ」

    いつのまにか、無理なくそんなふうに考えられるようになっていた。

    すると、自分の決断について、よりポジティブな意味を見出すことができるようにになった。

    「100メートルを諦めたのは、勝ちたかったからだ」

    「勝つことに執着していたから、勝てないと思った100メートルを諦めた」

    「勝つことを諦めたくないから、勝てる見込みのない100メートルハードルという勝てるフィールドに変えた」

    つまりは、自分の憶測にある本心を言語化することができたのである。

    「勝つことを諦めたくない」

    そう、僕は、「AがやりたいからBを諦めるという選択」をしたに過ぎない。

    5回の内容に言っておくが、僕は400メートルハードルをやりたかったから100メートルを諦めたわけではない。

    初めて世界の舞台を見て、ここで買ってみたいと思ったのだ。

    しかし100メートルにこだわっているかぎり、それは絶対だと思われた。

    多くの人は、手段を諦めることが諦めだと思っている。

    だが、目的さえ諦めなければ、手段は変えてもいいのではないだろうか?

    僕は400メートルに移ってからほぼ3年間、いろいろなことに試し、また、思考愛続けた。

    最初は自分を納得させたい一心だったが、自分の置かれた状況と自分の持っている身体や能力を客観的に分析していった結果、

    「400メートルハードルに移ってよかった」という結論に辿り着いた。

    世界で最も「勝ちにくい」100メートルを諦めて、僕にとって「勝ちやすい」400メートルハードルにフィールドを変えたのは、

    僕が最も執着する勝利という目的を達成するために「必要だった」と納得できたからだ。

    400メートルハードルは、100メートルに比べて競技人口が圧倒的に少なく、当時はまだまだそれほど多くの国が参入していなかったこともあって、

    戦力的にも洗礼されていなかった。

    だから「華やかさに欠け、注目されない」種目だったとも言える。

    しかし、見方を変えれば「だからこそ勝ちやすい」のである。

    100メートルで決勝に出られない人間と、400メートルハードルでメダルが取れる人間。

    どちらに価値があると自分は思うのだろうか。

    問いを変えることで、答えも変わってくるのである。

    やめることについて考えよう

    やめることについて考えたことあります?

    やめることについて考えるって少し違和感ありますよね…

    昔の僕もそうだったけど、何か新しいこと始めたりするときは考えたりしますが、やめることは考えたことなかったです。

    やめることはあってもやめることをそこまで真剣に考えたことはなかったです。

    やめる=つまらない(飽きた、わからない)

    のような単純にやりたくないからやめたというぐらいです。

    これから自分の人生を切り開いていくためには、本書に書いてあるような「やめること」の重要性が書かれているので、ぜひ参考にしてみてください。

    ちなみにぼくの場合は、趣味をやめたり、仕事をやめたりしてやめることを徹底しています。

    それまでやってきたことをやめる時には、後ろめたさ、歯がゆさ、恥ずかしさなど、さまざまなネガティブな感情が出てくるものだ。

    途中で投げ出すやつ、というレッテルを貼られたくない、格好悪い、できることならやめたくない。

    多くの人がそう考えるだろう。

    では、このまま続けても結果が出そうにないと気づいたとき、それでもやめないことはいいことなのだろうか。

    この場合、やめない理由は、大きく分けて2つある。

    「好きなことだからやめない」
    「今まで続けてきたからやめない」

    違いは、自分の中での割り切りを意識しているかどうかである。

    「私はこれを好きでやっている。多分成功しないこともわかっている。でも、好きでやっているのだからそれでいい」

    これが割り切っている人の考え方である。

    割り切ったうえでやめないことを自ら選択しているケースについては、他人がとやかくいう筋合いはない。

    好きなことをしているのだけでが幸せだというのであれば、成功を追求しることよりもむしろ、取り組むことそのものに意味がある。

    一方、割り切っていない人の考え方はこうだ。

    「私にはこれしかない。今以上に努力を続けていれば、いつか成功できるはずだ」

    努力するレバどうにかなるという考え方だと、成果を出せないままズルズルと続けてしまいかねない。

    何かを達成したいという欲求があるのなら、自分が好きなだけでなく、自分に合った得意なものを選択するだろう。

    「今まで一生懸命やってきたし、続けていれば希望はある」

    こう考える人は、もしかしたら自分を客観視できていないのかもしれない。

    一生懸命やったら見返りがある、という考え方は、犠牲の対価が成功、

    という勘違いを生む。

    全ての成功者が苦労して犠牲を払っているわけではなく、

    運がよかったり容量がよかったりして成功した人の方が実際は多いのではないだろうか。

    継続できない人や努力をしていない人が多くいますが、トップ30%くらいの努力している人の中でも結果が出ない人がいる厳しい世界。

    ぼく自身もスポーツの世界では、一生懸命や努力をしたら、夢や目標が叶うと指導されてきた記憶がありますが、今ならわかりますが、正直努力だけでは限界があります。

    才能や運も必要ですね。

    著者が言う「自分に合っているもの」を選択をすることが最も成功に近づくのはかなり説得力ありますし、こう言った経験をされている人に指導されたいと心の底から思います。

    スポーツ以外のことについても考え方を使うことができるので、ほかの分野でも生かしていきたいです。

    本は少し古いですが、内容は本質的であり、世の中の価値観を変える内容になっています。

    スポーツ選手はもちろん、勉強や何かに挑戦している人、あるいは挑戦しているけど、うまくいかない人はぜひ手に取って読んでみてください。

    もしかすると、あなたの背中を押してくれう一冊になるかもしれません。

    スポンサーリンク